「私達はスペイン人ではなく、カタラン人だ」という表現があります...
カタルーニャ州は、歴史的にカタラン人意識と独立心の強い地方です。
約1000年前:この地方に多くの先住民の「イベリア人」が住んでいた(ライエタンズ部族、アウセタンズ部族など)。
紀元前7世紀:ギリシャ人が交易を目的に住みついて海岸沿いにアンプリアス市を作る。
紀元前3世紀〜西暦5世紀:ローマ人に征服され、この地方はローマの植民地になる。タラゴナは、イベリア半島の一つの首都になる。
西暦5世紀〜7世紀:ローマ帝国が滅亡した後、西ゴート王国が建設されて、バルセロナは西ゴートの首都になる。キリスト教徒が多くなる。
西暦7世紀〜:イスラム教徒が、イベリア半島を侵略。
西暦732年:イスラム教徒は、フランク王国(現在:フランス)西部のプアティエ市まで侵略。イスラムによる支配。
西暦8世紀~:ユダヤ人の人口が増える。
西暦8世紀:フランク国王は、フランク王国を守る為、ピレネー山脈に辺境領(辺境領とは、国境付近に防備の必要上置いた軍事的領地)を作った後、ピレネー東南部は、カタルーニャになっていく。
西暦985年:将軍アルマンソール(イスラム教徒)により、バルセロナが支配される。カテドラル等が破壊される。
西暦988年:辺境領を統治していたバルセロナ公爵によって、辺境領はフランク王国から独立。
西暦10世紀~11世紀:人口(特に農民)が増える。ロマネスク様式の建物(修道院、教会、城)がたくさん造られる。
西暦1027年:封建的な反乱が多くなったので、ウリバー修道院長により、「パウ・イ・トレバ」公会議が開催される。
西暦1112年:プロヴァンス州が、バルセロナ公爵の新しい領地になる。
西暦1137年:政略結婚で、カタルーニャとアラゴンが連合。バルセロナ公爵の称号がアラゴン国王に変わる。
西暦12世紀中ごろ:シトー会のポブレット修道院が造られ、アラゴン王家(ジュアン1世、ジャウマ1世、ペラ4世、マルティー1世など)の埋葬地になる。
西暦12世紀〜15世紀:バレンシア州、アラゴン州、バレアレス諸島、南イタリア、南ギリシャ、シシリア島、サルデーニャ島などが、カタルーニャの植民地になり、カタルーニャは、地中海の貿易で栄える。
13世紀:バルセロナ海岸で「王立造船所」が造られる。アラゴン海軍が強くなる。
1328年〜1383年:バルセロナのボルン地区で「海の聖母マリア教会」が造られる。
1348年:ペストが広がり、バルセロナ市民の約60%が亡くなる。
1469年~1474年:カトリック両王の政略結婚でカタルーニャ、アラゴン、レオンとカスティヤが連合。
1597年:バルセロナ、サン・ジャウマ広場で「カタルーニャ政府庁」の建設工事が始まる。
1640年~1652年:収穫人戦争。
1652年:バルセロナの人口が、1万4千人になる。
1659年:ピレネー条約により、カタルーニャだったペルピニャン地方が、フランスになる。
1700年〜1715年:スペイン継承戦争が起こる。フランスとカスティーリャ王国(現在のスペイン)は、ブルボン家を応援し、カタルーニャ・アラゴン国、ポルトガル、イギリス、オランダとオーストリアは、ハプスブルク家を応援する。スペイン継承戦争を負けたカタルーニャ国が、仕方がなく、カスティーリャ王国の新しい州になる。
ブルボン朝フェリペ5世により、バルセロナのボルン地区で広い要塞が造られる。
カタルーニャは自治権を奪われ、カタルーニャ語使用は公衆の場で禁止となる。
1715年~19世紀中ごろまで:カタルーニャは衰退。
19世紀中ごろ~20世紀初頭まで:多くの工場(特に織物、繊維)が造られる。同時に無政府主義者が多くなる。
1909年:「セマナ・トラジカ、悲劇の一週間」:労働者の反乱が多くなり、工場や教会がたくさん焼かれる。
1929年:バルセロナで万国博が開催される。
1931年4月14日:サンジャウマ広場でフランセスク・マシア氏はイベリア連邦内のカタルーニャ共和国を宣言する。
1936年~1939年:スペイン内戦。その後、カタルーニャが厳しく弾圧される。
1975年:フランコ独裁者死亡。
1977年:カタルーニャ自治州政府「ラ・ジェネラリタット」が復活。
1979年:カタルーニャの新しい州法が承認される。
1988年:カタルーニャの誕生、1000周年。
1992年:バルセロナ・オリンピックが開催される。
2006年:カタルーニャ州議会がカタルーニャ自治憲章を改正。
第2ポエニ戦争の時に、ローマ帝国の軍隊はイベリア半島に派遣されました。紀元前218年にタラゴナが建設され、イベリア半島の首都になりました。紀元前15年にバルセロナも建設され、「バルキノ」と呼ばれていました。
476年にローマ帝国が滅亡した後、バルセロナは西ゴートの首都になりました。「バルキノ」が「バルキノナ」と名前を変えました。
70年ぐらいしかイスラムの支配が続きませんでした。そのため、スペインの他の地方と比べると、独特な歴史があります。
9世紀にはフランク王国の助けを得て、キリスト教に復活しました。フランク国王はカタルーニャを統治していたバルセロナ公爵をお選び、自国を守るためにカタルーニャを建国しました。カタルーニャはスペインより700年早くヨーロッパの影響を強く受けました。
12世紀にバルセロナ公爵が住んでいる町から、アラゴン王の住んでいる町に変わりました。バルセロナは古くからカタルーニャの首都として発展してきました。
1492年にコロンブスが新大陸アメリカを発見した後、ヨーロッパの関心は大西洋の方に向かいました。そのため、地中海の貿易は縮小し、バルセロナも振るわなくなりました。
19世紀には産業革命の影響で繊維と織物で利益を上げ、バルセロナは華やかになりました。モデルニスモ建築の流行で、ガウディ、ドメネック・イ・ムンタネー、プッチ・イ・カダファルクによって、バルセロナ新市街はヨーロッパの注目を集めました。ピカソ、ミロ、ダリ等といった天才たちが活躍しやすい時代でした。
1936年〜1975年:独裁者フランコ時代にバルセロナは圧政を激しく抵抗しました。
1992年のサマー・オリンピックが開催され、そのお陰でバルセロナは全世界で広く知られるようになりました。北ヨーロッパ人の目で見ると、バルセロナは南の町で、南の人の目で見ると、バルセロナは北ヨーロッパの雰囲気です。ヨーロッパの諸外国から移住する人、または学生がたくさんいます。
現在のバルセロナは南ヨーロッパの重要な街になっています。
バルセロナは外国人をたくさん受け入れ、違う文化がうまく解け合って、独特の個性を見せています。地区によって、中世の町並み、または現代的な建築物を見ることが出来、古い物を大事にしながら、新しい物を取り入れる柔軟さを兼ね備えています。こう言ったバルセロナの自由な空気が、世界第6位の人気観光都市になりました。
カタルーニャは、人口約750万人で、一年を通じて暮らしやすい気候が続きます。乾燥した夏と温暖な冬の地中海性気候です。山と丘が多く、内部にはピレネー山脈があり、海岸部も北は岩と崖が多く、南は白い砂浜が広がっています。
バルセロナを中心とする地方は金融と重工業の先進地帯です。観光、製薬業界、車メーカーなどが盛んで、スペイン国内の生産の約20%です。カバと呼ばれるスパークリング・ワインの産地でもあります。地中海のリゾート地なども増え続けています。
カタルーニャの祝日は9月11日です。毎年、その日にはセレモニー、イベント、人間の塔などが開催されます。
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