パブロ・ピカソは、20世紀の最も有名な画家でした。南スペインに生まれたピカソは、「ゲルニカ」、「アビニヨンの娘たち」、「アルジェの女たち」とい絵画を描きました(彫刻や陶器もたくさん作りました)。20歳ぐらいからパリに移動し、亡くなるまでフランスに住んでいました。女性が大好きなピカソは、2回結婚しましたが、多くの恋人と付き合いました。ピカソの伝記、有名な作品リストや美術館情報をまとめました。
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パブロ・ピカソ( Pablo Picasso )は1881年10月25日に南スペインのマラガ市 に生まれました。フルネームは Pablo Diego Jose Francisco de Paula Juan Nepomuceno Maria de los Remedios Crispiniano de la Sentisima Trinidad Ruiz Blasco Picasso y Lopez でした。長いですので、これからピカソと書きますね!
ピカソにはロラとコンチタという妹が二人いましたが、1891年にコンチタは亡くなりました。ピカソのお父さん Don Jose Ruiz y Blasco (ドンホセルイスイブラスコ)はデッサンの先生でしたので、ピカソは8歳の時に絵画を描き始めました。
若いピカソの作品は日常生活に影響を受け、「 El Picador 」(闘牛師)を描いたのは10歳未満でした。14歳の時にお父さんの仕事の関係でバルセロナに引っ越し、バルセロナの美術学校に入校しました。
1894年にピカソのデッサンは現地の新聞に載せられたり、両親のポートレートを描いたりしていました。最初に彼のお父さんの名前で Ruiz (ルイス)とサインしていましたが、1901年にお母さんの名前で Picasso(ピカソ) とサインすることに決めました。
彼の友達 Carlos Casagemas(カルロスカサジェマス)が自殺したので、1901〜1903年にピカソは落ち込んで、「青い時代」に入りました。そのため、絵画には死、老齢と貧乏がよく現れました。
1904年にパリに移動し、Bateau Lavoir(バトラヴォアール)に住み始めました。マチス、アポリネール等と友達になり、Fernande Olivier(フェルナンドオリビエ)に出会いました。「ピンクの時代」の始まりでした。パリで大道芸人に出会って、サーカスの絵画も多くなりました。
1906年からピカソの絵画は広く知られ始めました。その時から Cezanne(セザンヌ)の影響も受けました。1907年にバルセロナ旧市街の通りの名前から来たアイデアで「アビニョンの娘たち」を描きました。
1906〜1914年にキュービスムの時代の誕生で、全てのオブジェは簡略化され、四角が多くなりました。同じ人物は同時に横顔と正面が描かれます。様々な材料(織物、ボール紙)を使って、コラージュも始まりました。最初にキュービスムは退廃した芸術だと言われ、ナチズムヨーロッパの時は禁止された作品さえありました。
ピカソは1909年にゆとりのある生活を始めて、パリのやや高級エリアに引っ越しました。1912年にフェルナンドと別れて、Marcelle Humbert (マルセールアンベール)と暮らし始めました。彼女のニックネーム Eva(エバ)はピカソの作品によく出てきます。ピカソはスペイン国籍なので、第1次世界大戦に参戦しませんでした。
エバは病気で1915年12月に亡くなって、途方にくれたピカソは落ち込みました。
1917年2月に Jean Cocteau (ジャンコクトー)と一緒にローマに行き、ロシア・バレエに出演していた Olga Kokhlova(オルガコクロバ)と恋に陥り、1918年にオルガと結婚しました。翌年、ミロに出会いました。
1920年代に金属と針金を使って、作品を作りました。同時にシュールレアリスムに近づいて、家族の肖像画を描き、また、ダンサー、音楽家、水浴する女性やアルルカンをよく描きました。フランス南部の Saint Raphael(サンラファエール)で夏休みを過ごしました。1921年に彼の長男 Paulo(パウロ)が生まれました。
古代ローマに関わる絵画が多く、古典主義の時代が始まりました。
ピカソは1927年から恋人 Marie-Therese Walter(マリーテレズウォルター)と幸せな時間を送り、鮮やかな色、丸々した形、そして、彫刻と版画も作りました。
1935年に恋人マリーテレズの間にピカソの長女 Maya(マヤ)が生まれ、そのため、オルガと離婚しました。1936年にスペイン内戦下でフランコ将軍の命令でマドリッドにあるプラド美術館の館長になりました。同じ年に若い写真家 Dora Maar(ドラマアール)と新しい恋人関係を持ち、2人とも、スペイン内戦について心配していました。
1937年にスペインのファシストの政府に反対しました。同じ年、スペイン内戦下で、ゲルニカという町はドイツ空軍に爆撃され、ピカソは怒りを強く感じ取り、白と黒の絵画を描きました。町と同じ名前をつけて、現在 Guernica(ゲルニカ)という絵画を知らない方はいないでしょう。
ドイツ軍のフランス占領下でパリに戻り、戦争に強く反対して、「平和の鳩」を描きました。「私は芸術家だけではなく、戦士と革命家でもあります」と言って、1944年〜1953年まで共産党に入党しました。
1940年代に若い芸術家 Francoise Gilot(フランスアズジロー)と南フランスの Antibes(アンティーブ)に住み、二人の子供Claude(クロード)と Paloma(パロマ)が生まれました 。彼らは絵画によく描かれました。
第2次世界大戦が終わってから、彼の絵画はもう少し明るくなり、1947年に陶器も作り始めました。
1954年に Jacqueline Roques (ジャクリンローク)と出会って、翌年に彼女と結婚しました。その時から南フランスにジャクリンと一緒に住んで、全世界でピカソの展示会が多く開催されました。
ピカソは1973年4月8日、92歳の時に、永眠しました。南フランス Vauvenargues (ヴォヴナルグ )に埋葬されました。
生きている時から有名だったピカソは、現在、全世界に美術館があります。もっとも有名な美術館はバルセロナ、パリと南フランス・アンティーブの美術館です。他の天才と違って、ピカソの場合は若い時代の作品もたくさん残っています。若いピカソの作品の大半はバルセロナのピカソ美術館で見ることが出来ます。
ピカソは、絵画をたくさん描いたり、陶器をたくさん作ったりしました。
初聖体拝領 |
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La première communion |
1895年 |
ピカソ美術館(バルセロナ) |
亡くなった女性 |
Head of dead woman |
1902年 |
ピカソ美術館(バルセロナ) |
人生 |
La Vie |
1903年 |
クリーブランド美術館 |
自画像 |
Autoportrait |
1906年 |
ピカソ美術館(パリ) |
アビニヨンの娘たち |
Les Demoiselles d'Avignon |
1907年 |
ニューヨーク近代美術館 |
ゲルニカ |
Guernica |
1937年 |
ソフィア王妃芸術センター(マドリッド) |
帽子と毛皮の襟を付けた女性 |
Woman in Hat and Fur Collar |
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1937年 |
カタルーニャ美術館 |
泣く女 |
La femme qui pleure |
1937年 |
テート・モダン(ロンドン) |
女官たち |
Las Meninas |
1957年 |
ピカソ美術館(バルセロナ) |
ヨーロッパにあるピカソ美術館が4軒あります:
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