カタルーニャ出身のサルバドール・ダリは、20世紀の有名な画家で、シュルレアリスムの代表者の一人でした。ダリが愛したミューズの妻ガラは絵画によく描かれています。チュッパチャップスのロゴもダリのデザインでした!ダリ作品は、絵のみではなく、彫刻、版画やデッサンも多いです。
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サルバドール・ダリ( Salvador Dali i Domenech )はいつも挑発的行動をする人でした。
絵画だけではなく、劇場の舞台装置やコスチュームデザイン、宝石のデザイン、彫刻、映画監督、コマーシャル、ファッション、立体絵(3D絵)、詩や小説も書く天才でした。
1901年にサルバドール・ダリという名前の子供がカタルーニャ地方の北部にあるフィゲラスという町で生まれましたが、21ヶ月後に亡くなりました。公証人の仕事をしていたその子の父親が権威主義的性格で、幼い息子を虐待したからだと言われています。
1904年5月11日に同じフィゲラス で、サルバドール・ダリが(再び)生まれました。その子は少し前に亡くなった兄と同じ名前が付けられ、その後世界的に有名な画家になります。
同じ名前、同じ服、同じおもちゃ、ダリの両親は亡くなった長男の生まれ変わりと彼をみなしました。このことは画家のサルバドール・ダリの頭にずっとあり、彼の人生、性格、作品などに大きな影響を与えています。
1908年に妹アナ・マリアが生まれました。
いたずらっ子の若いダリは屋上の洗濯場に閉じこもって、何時間もかけて絵を描きました。とても上手でした。
14歳のダリの画いた絵がフィゲラスの劇場に出品され、よい評価を受けました。
1921年に母が亡くなり、同じ年の10月にダリはマドリッドの美術学校に入学し、学校の寮で映画人ルイス・ブニュエルと詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカと出会います。
2年後、ダリはデッサンの先生を激しく批判し、そのため学校から退学処分にされてしまいました!
その後夏休みを、ダリはブニュエルとガルシア・ロルカと一緒にフィゲラスの近くにあるカダケスという漁村でよく過ごしました。
また、1925年バルセロナのダルマウ・ギャラリーで最初の個展を開き、ダリの絵を見たパブロ・ピカソやジョアン・ミロが興味を持ってくれました。1926年に初めてフランスに行き、パリでパブロ・ピカソに出会います。
スペインの兵役を務めた後、パリに戻り、ジョアン・ミロの紹介でシュールレアリスムのグループを創立したアンドレ・ブロトンやポール・エリュアールに出会います。
1929年にカダケスにエリュアールと彼の奥さん「ガラ」を招待し、もてなしました。この時ダリはガラ(ダリの10歳上)と運命的な出会いをして恋に陥ってしまいます。それ以後ガラが亡くなるまで、二人は離れることはありませんでした。ガラはダリのミューズでした。
ダリの父は息子が結婚している女性と付き合っていることを怒ってダリと決別し、1948年まで二人は一度も会うことはありませんでした。
1929年ダリはルイス・ブニュエルと一緒に「アンダルシアの犬」と「黄金時代」という映画を製作し、ダリはシュールレアリスムのグループのメンバーになります。
1930年:偏執狂的批判的方法の始まりです:「腐ったロバの死体」や「見える女性」(ガラを敬意を払うため)の著書を出版しました。
同じ年、カダケスの近くポール・リガットに小さな家を購入し、その家をその後だんだん大きくしていきます。そして毎年この「卵の家」でガラと一緒に長く滞在するようになります。
1932年:ダリはアメリカで開かれたシュールレアリスム展に参加しました。「ゾディアク」というグループが創立されて、定期的にそのグループのメンバー達はダリの絵画を購入しました。
パリでダリとガラは民法上の結婚をおこないました。
1934年:パリ、ロンドン、ニューヨークとバルセロナでダリの個展が開催され、ニューヨークの個展は特に熱狂的な成功をおさめました。
秋のサロンで、「ウィルヘルム・テルの謎」を紹介し、その時からアンドレ・ブルトンとの見解の相違が始まりました。
1936年:スペイン内戦。ロンドンで開催されたシュールレアリスムのエキスポでインタビューのため、ダリは潜水服を着て登場し人々を驚かせました。しかし潜水服の中の空気がだんだん薄くなってしまい、ダリは息が詰まるところでした!
12月にダリの写真がタイムズ日刊紙のカバーに掲載されました。
1937年にハリウッドでマルクス兄弟に会います。この年「ナルシスの変貌」を描きました。またイタリア人のファッション・デザイナー、スキアパレリと連携協力して、オマールのドレスなどをデザインしました。
次の年にシュールレアリスムの国際エキスポに参加し、前から精神分析学の影響を強く受けていたダリは7月にフロイトに会い、フロイトの画像を何枚か描きました。
1939年にダリはヒトラーやフランコ独裁者に賛意を表したため、シュールレアリスムの創立者アンドレ・ブロトンはダリとの関係を解消します。前者はSALVADOR DALI の名前の文字ゲームで AVIDA DOLLARS(スペイン語:ドルの亡者)に変更しました。
1940年:ダリとガラはパリに短期間滞在した後、アメリカに移住します。
米国に住んでいた8年間にディズニーとヒッチコックと一緒に働き、アニメの計画や映画の舞台装置を作りました。自伝(ダリのシークレット・ライフ)も出版しました:少年時代、父との難しい関係や少年時代から自分が天才だと知っていたことなどが分かりやすく書いてあります。
1949年にダリ夫婦はヨーロッパに戻りました。ダリはポール・リガットのマドンナのシリーズを描きます。
1952年:広島の原爆の影響で、電子核の神秘神学時代と粒子の時代の始まり。
1953年:カリフラワーでいっぱいにした黄色と黒いロールスロイスでやって来て、パリのソルボンヌで偏執狂的批判的方法についての講演をして大成功しました。
1950年代:宗教的な絵が多くなります。1950年:ポール・リガットの聖母、1954年:磔刑のキリスト、1955年:最後の晩餐。
1958年に(ガラの最初の夫エリュアールが亡くなった後)ダリとガラはスペインの教会で結婚しました。
ハプニングでパリのエトワール劇場において長さ12メートルのパンを紹介しました。
1960年代:神秘主義の絵画がたくさん描かれました。
ベネチアで登場したバレーのため、ダリは舞台装置を作り、モーリス・ベジャールは振り付けをしました。
ダリは南フランスにあるペルピニャン駅が世界のおへそだと突然気がつき、人々にも知ってもらおうと、広く公言し始めます...
ミレーの「晩鐘」についての悲劇的神話が発売され、「ダリ天才日記」が出版されました。
1971年にアメリカのクリーブランド(米国オハイオ州)で、ダリ美術館がオープンしました。11年後、その美術館はセントピーターズバーグ(米国フロリダ州)に移動されて、カタルーニャの天才の一番有名な絵が展示されています。
1974年:フィゲラスのダリ美術館もオープンしました。
https://www.salvador-dali.org/
1979年にパリのポンピデュー・センターでダリの大きな回顧展が開かれました。
1982年6月10日に88歳でガラが病気で亡くなり、悲しみのためダリは落ち込みました。ダリはガラにプレゼントしたプボル城に移り住み、その後、彼はプボル侯爵になりました。
1983年:マドリッドとバルセロナでダリの回顧展が開催されます。
1983年5月にダリは最後の絵「燕の尾」を描きました。
翌年にプボル城で、夜間ダリの部屋で火事があり、ダリはおお火傷をし、バルセロナで入院しました。
1988年:モスコーで初めてダリの個展が開れました。
1989年1月23日、天才のサルバドール・ダリはフィゲラスで永眠し、彼の希望で、彼の遺体はやって来た人達が彼のお墓の上を踏むようにダリ美術館の地下室に埋葬されました。お金が大好きだったダリは彼の財産をスペイン政府に全部寄付しました。
☆ ダリの絵によく描かれているモノは:パン、卵、蟻、バッタ、足が細長い象、ガラ、腐ったモノ、エロチシズム、海栗(うに)、ピアノ、ハエ、ダマシエ、鍵など。
☆ ダリの言葉:
狂人と僕の違いは、僕は気違いではないということだ。
私は6歳の時に料理のシェフになりたかった。7歳の時にはナポレオンになりたかった。その頃から、私の望は私の誇大妄想のように常に大きくなっていった。
ダリがいる所には、決して私は退屈しません!
☆ ホテル・デュランのオーナーが語った話:
ある日はダリはフィゲラスのデュランホテルで夕食をとる予定でした。でも、その日はガラがいなかったので一人でした。午後、ダリは町を歩いていて、よく行ったことのある洋服店の前を通り過ぎようとした時、その店の店長がウィンドーの洋服を変えているところでした。ダリはその店に入り、「女性のマネキン人形4体をデュラン・ホテルに持ってきてくれませんか?」と頼みました。
デュランさんはダリの依頼でレストランのテーブルの周りにマネキン人形を座らせて、きれいなドレスを着せました。
その夜、ダリは4人の”女性”と夕食を楽しく過ごしたということです!
☆ 35年ぐらい前にダリはフランスのテレビでチョコレートのCMをしました。自分の口ひげを触りながら、je suis fou...(I am crazy)と言って、しばらく間をおき du chocolat Lanvin !(about Lanvin's chocolate !)。
ダリは、絵画をたくさん描きました。有名な作品は、次のようです:
父の肖像 |
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Retrat del meu pare |
1925年 |
カタルーニャ美術館 |
大自慰者 |
El gran masturbador |
1929年 |
ソフィア王妃芸術センター(マドリード) |
記憶の固執 |
La persistència de la memòria |
1931年 |
ニューヨーク近代美術館 |
ロブスター電話 |
Teléfono Langosta |
1936年 |
テート・モダン(ロンドン) |
燃えるキリン |
The Burning Giraffe |
1937年 |
バーゼル市立美術館(スイス) |
ガラリナ |
Galarina |
1945年 |
ダリ美術館(フィゲラス) |
パン箱 |
La cistella de pa |
1945年 |
ダリ美術館(フィゲラス) |
ポルト・リガトの聖母 |
La Madona de Portlligat |
1950年 |
福岡市美術館 |
幻覚剤的闘牛士 |
El torero alucinógeno |
1968年~1970年 |
ダリ美術館(フィゲラス) |
ダリ美術館が4軒あります。
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