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バルセロナと深い関係のある有名人のご紹介:






アントニー・ガウディ


アントニー・ガウディ・イ・コルネット(Antoni Gaudi i Cornet、1852年6月25日〜1926年6月12日)は、カタルーニャ地方の天才建築家で、モデルニスモ建築の代表者でした。

1852年にバルセロナの110キロぐらい南にある「レウス」という町に生まれました。ガウディの家族は5人兄弟で、貧乏な家族でした。2人の子供は小さいころに亡くなりましたが、そういった家庭環境は150年前では普通でした。

ガウディは少し珍しい青い目と赤毛でした。5歳ぐらいから、リュウマチをわずらい、学校を休みがちで、友達と遊ぶことがあまり出来ませんでした。

彼の両親は「リウドムス」という村(レウスの近く)に家を持って、若いガウディは庭と田舎でよく自然を観察しました。

ガウディのお父さんは鍛冶屋さんで、いつもアトリエでブランデーを冷やす時のパイプを作っていました(100年以上前にレウス地方はブランデーの有名な生産地でした)。

夜、石油ランプを利用すると、曲線のパイプの影は壁に映り、若いガウディに動いている蛇を想像させました。それは、ガウディが爬虫類を好きになったきっかけだったと思われます。

1873年:21歳の時に、バルセロナの建築学校に入校し、職人さんのアトリエでアルバイトを始めました。

1876年:医者になったガウディの兄が突然亡くなりましたから、ガウディのお母さんはショックのあまり、亡くなってしまいました。

1877年にガウディが建築の資格を得た時に、建築学校の校長先生は Qui sap si hem donat el diploma a un boig o a un geni ? El temps ens ho dira と言いました。「この資格は馬鹿な人に上げたか、天才に上げたか、時間が経てば、皆、知るでしょう...」

バルセロナはレウスから遠かったので、ガウディはだんだん実家に帰らなくなりました。その後、両親はバルセロナに引っ越しました。

1878年にパリで万国博が開催されました。若いガウディはそのエキスポのために、手袋屋さんのショー・ウィンドーを鉄とガラスで作りました。エキスポに行ったグエルさんはそのショー・ウィンドーを見て、とても感動して、「これを作った人に会いたい」と言いました。それはグエルさんとガウディが出会うきっかけになりました。

その後、グエルさんはガウディにたくさんの建築物を依頼しました(19世紀にバルセロナは繊維と織物で栄えていました。その時、繊維と織物の会社を経営していた人達はプチ・ブルジョワになりました。その中の一人がグエルさんでした)。

マタロ出身の「ジョゼファ・モレウ」に失恋してから、ガウディは決して結婚しませんでした。

1883年:31歳の時に、サグラダ・ファミリアの担当者になりました。

自然が好きなガウディはカタルーニャ地方の登山グループに参加して、田舎の古い建物を見て、ハイキングして、Verdaguer などに出会いました。ガウディの母国語はカタルーニャ語だったので、皆といつもカタルーニャ語で会話していました。

1900年:ガウディはカサ・カルベットを作って、バルセロナ市から建築賞を貰いました。生きている間に、この建築賞しか貰いませんでした。

1906年:ガウディの頑健なお父さんが91歳でバルセロナで亡くなりました。

1910年:フランスのパリで、ガウディのエキスポが開催されました。

1911年:体力が低下したガウディはピレネー山脈で静養しました。

ガウディは自然が好きで、曲線、放物線、自然のモノ(植物、動物...)、トカゲ、蛇などをよくモチーフにしました。
そして、ガウディのお父さんもお祖父さんも鍛冶屋さんでしたので、ガウディは小さい頃から、鉄に親しんでいました。彼の建築物には鉄をよく使いました。

ガウディの建築物は曲線ですので、普通のタイルを使うことが出来ません。そのため、ガウディは壊れたタイル(カタルーニャ語で「トランカディス」)を曲線に貼ることにしました。

体力が低下したため、1906年からグエル公園の家に住んでいたガウディは1926年にサグラダ・ファミリアに引っ越しました。

1926年6月12日:その日、ガウディは街を歩いていた時に、路面電車に轢かれました。2日後に、バルセロナ旧市街のサンタ・クレウ病院で亡くなりました。74歳でした。お葬式に多くの市民が参加しました。サグラダ・ファミリアの地下の礼拝堂に埋められました。少し後に、ガウディに会いに来た建築家の今井健二さんはバルセロナに到着して、ガウディの死を知りました。

ガウディには子供がいませんでした。家族がいないため、遺産は全部教会に寄付しました。

スペイン内戦(1936年〜1939年)の時に、ガウディが描いた設計図、ガウディが作った石膏模型はたくさんなくなりました。

1984年、カサ・ミラ、グエル公園とグエル邸が世界遺産になり、2005年にサグラダ・ファミリアのご誕生の正面、カサ・バトリョ、コロニア・グエルとカサ・ビセンスは追加され、ガウディの7つの建築物は世界遺産になりました。

ガウディは聖人に登録中です。


ガウディの建築物
* は世界遺産)

Fanals レイアル広場の街灯 バルセロナ旧市街
Casa Vicens カサ・ビセンス * バルセロナ新市街
Finca Guell グエル別邸 バルセロナ新市街
El Capricho エル・カプリチョ カンタブリア州
Sagrada Familia サグラダ・ファミリア * バルセロナ新市街
Casa Mila カサ・ミラ * バルセロナ新市街
Casa Batllo カサ・バトリョ * バルセロナ新市街
Palau Guell グエル邸 * バルセロナ旧市街
Parc Guell グエル公園 * バルセロナ新市街
Casa Calvet カサ・カルベット バルセロナ新市街
Casa Bellesguard カサ・ベイヤスガルド バルセロナ新市街
Casa Miralles カサ・ミライアス バルセロナ新市街
Colegio Teresiano テレサ学院 バルセロナ新市街
Palacio Episcopal 司教館 カスチヤイレオン州
Casa de Botines カサ・ボティネス カスチヤイレオン州
Colonia Guell コロニア・グエル * バルセロナの郊外
Bodega Guell ボデガ・グエル バルセロナの郊外
Rosario monumental 栄光の第一秘跡 モンセラット
Cooperativa Obrera Mataronenca 労働組合社の住宅・工場 マタロ
Jardines Artigas アルティガス庭 カタルーニャ地方
Catedral de Palma de Mallorca パルマ・デ・マヨルカのカテドラル マヨルカ島
Hotel Atraction アトラクション・ホテル ニューヨーク

1908年にガウディによってデザインされたニューヨークのアトラクション・ホテルが作られませんでした。しかし、2001年9月11日にテロ事件でワールドトレードセンターが破壊された後、新しい建物の計画がたくさん立てられて、一つの計画はガウディのホテルでした。




パブロ・ピカソ


パブロ・ピカソ( Pablo Picasso )は1881年10月25日に南スペインのマラガ市に生まれました。本当の名前は Pablo Diego Jose Francisco de Paula Juan Nepomuceno Maria de los Remedios Crispiniano de la Sentisima Trinidad Ruiz Blasco Picasso y Lopez でした。長いですので、これからピカソと書きますね!

ピカソにはロラとコンチタという妹が二人いましたが、1891年にコンチタは亡くなりました。ピカソのお父さん Don Jose Ruiz y Blasco (ドンホセルイスイブラスコ)はデッサンの先生でしたので、ピカソは8歳の時に絵画を描き始めました。

若いピカソの作品は日常生活に影響を受け、「 El Picador 」(闘牛師)を描いたのは10歳未満でした。14歳の時にお父さんの仕事の関係でバルセロナに引っ越し、バルセロナの美術学校に入校しました。

1894年にピカソのデッサンは現地の新聞に載せられたり、両親のポートレートを描いたりしていました。最初に彼のお父さんの名前で Ruiz (ルイス)とサインしていましたが、1901年にお母さんの名前で Picasso(ピカソ) とサインすることに決めました。

彼の友達 Carlos Casagemas(カルロスカサジェマス)が自殺したので、1901〜1903年にピカソは落ち込んで、「青い時代」に入りました。そのため、絵画には死、老齢と貧乏がよく現れました。

1904年にパリに移動し、Bateau Lavoir(バトラヴォアール)に住み始めました。マチス、アポリネール等と友達になり、Fernande Olivier(フェルナンドオリビエ)に出会いました。「ピンクの時代」の始まりでした。パリで大道芸人に出会って、サーカスの絵画も多くなりました。

1906年からピカソの絵画は広く知られ始めました。その時から Cezanne(セザンヌ)の影響も受けました。1907年にバルセロナ旧市街の通りの名前から来たアイデアで「アビニョンの娘たち」を描きました。

1906〜1914年にキュービスムの時代の誕生で、全てのオブジェは簡略化され、四角が多くなりました。同じ人物は同時に横顔と正面が描かれます。様々な材料(織物、ボール紙)を使って、コラージュも始まりました。最初にキュービスムは退廃した芸術だと言われ、ナチズムヨーロッパの時は禁止された作品さえありました。

ピカソは1909年にゆとりのある生活を始めて、パリのやや高級エリアに引っ越しました。1912年にフェルナンドと別れて、Marcelle Humbert (マルセールアンベール)と暮らし始めました。彼女のニックネーム Eva(エバ)はピカソの作品によく出てきます。ピカソはスペイン国籍なので、第1次世界大戦に参戦しませんでした。
エバは病気で1915年12月に亡くなって、途方にくれたピカソは落ち込みました。

1917年2月に Jean Cocteau (ジャンコクトー)と一緒にローマに行き、ロシア・バレエに出演していた Olga Kokhlova(オルガコクロバ)と恋に陥り、1918年にオルガと結婚しました。翌年、ミロに出会いました。

1920年代に金属と針金を使って、作品を作りました。同時にシュールレアリスムに近づいて、家族の肖像画を描き、また、ダンサー、音楽家、水浴する女性やアルルカンをよく描きました。フランス南部の Saint Raphael(サンラファエール)で夏休みを過ごしました。1921年に彼の長男 Paulo(パウロ)が生まれました。
古代ローマに関わる絵画が多く、古典主義の時代が始まりました。

ピカソは1927年から恋人 Marie-Therese Walter(マリーテレズウォルター)と幸せな時間を送り、鮮やかな色、丸々した形、そして、彫刻と版画も作りました。

1935年に恋人マリーテレズの間にピカソの長女 Maya(マヤ)が生まれ、そのため、オルガと離婚しました。1936年にスペイン内戦下でフランコ将軍の命令でマドリッドにあるプラド美術館の館長になりました。同じ年に若い写真家 Dora Maar(ドラマアール)と新しい恋人関係を持ち、2人とも、スペイン内戦について心配していました。

1937年にスペインのファシストの政府に反対しました。同じ年、スペイン内戦下で、ゲルニカという町はドイツ空軍に爆撃され、ピカソは怒りを強く感じ取り、白と黒の絵画を描きました。町と同じ名前をつけて、現在 Guernica(ゲルニカ)という絵画を知らない方はいないでしょう。
ドイツ軍のフランス占領下でパリに戻り、戦争に強く反対して、「平和の鳩」を描きました。「私は芸術家だけではなく、戦士と革命家でもあります」と言って、1944年〜1953年まで共産党に入党しました。

1940年代に若い芸術家 Francoise Gilot(フランスアズジロー)と南フランスの Antibes(アンティーブ)に住み、二人の子供Claude(クロード)と Paloma(パロマ)が生まれました 。彼らは絵画によく描かれました。

第2次世界大戦が終わってから、彼の絵画はもう少し明るくなり、1947年に陶器も作り始めました。

1954年に Jacqueline Roques (ジャクリンローク)と出会って、翌年に彼女と結婚しました。その時から南フランスにジャクリンと一緒に住んで、全世界でピカソの展示会が多く開催されました。

ピカソは1973年4月8日、92歳の時に、永眠しました。南フランス Vauvenargues (ヴォヴナルグ)に埋葬されました。

生きている時から有名だったピカソは、現在、全世界に美術館があります。もっとも有名な美術館はバルセロナ、パリと南フランス・アンティーブの美術館です。他の天才と違って、ピカソの場合は若い時代の作品もたくさん残っています。若いピカソの作品の大半はバルセロナのピカソ美術館で見ることが出来ます。


http://museupicasso.bcn.cat/






パウ・カザルス


パウ・カザルス( Pau Casals )は、20世紀の音楽家や音楽を志す人たちの間で著名な人でした。

パウ・カザルスは、1876年12月29日にバルセロナの南にあるブドウ畑とオリーブの木に囲まれているアル・バンドレイユ市(El Vendrell)に生まれました。小さな家は、清潔好きなお母さんによって大切に維持されていました。

パウ・カザルスが最初に弾いた楽器(現地の大工が作ってくれた一線のコントラバス)も残っています。
サンタ・アナ通りの家は、今もあまり変わっていません。

お父さんは音楽家でパウに音楽の基本を教えて、お母さんの堅い意思で偉大なチェリストになりました。

その後、パウは、バルセロナとマドリッドで一生懸命に勉強しました。パウ・カザルスは、23歳の時、プロとして全世界のコンサートホールで演奏しました。チェロの弾き方に革新的な変更をもたらしました。技術と表現力に富んだ演奏を可能にしました。

パウ・カザルスは、チェロの先生と作曲家でありました。アル・パセブラ(El Pessebre)という作品は、平和の賛歌になりました。鳥の歌(Cant dels ocells)もカタルーニャの民俗の歌でした。

スペイン内戦(1936〜1939年)の為、パウ・カザルスは、フランスのプラード市(Prades)に一時亡命し、その後、プエルトリコのサン・ホアンに行きました。亡命したフランスのプラード市で今でもパウ・カザルス祭りが開催されます。

スペインは、ファシストに統治された時、多くの芸術家やインテリのようにパウ・カザルスは、亡命しなければなりませんでした。この時から、パウ・カザルスは、他の亡命者を手伝いました。コンサートを開催したりして、救済寄金を集めました。

優れた音楽家の上、パウ・カザルスは、いつも自由と平和を心から応援しました。慈善のコンサート、人道主義的な行動、そして、国連での多くの発表でパウ・カザルスは平和主義者になりました。
国連やアメリカのオワイト・ハウスでコンサートをおこない、マーティン・ルーサー・キングと親友になり、ゴルダ・メイアを泣かせ、皆さんに尊敬され、カタルーニャだけではなく、全世界で愛されていました。

後ろに残してきた国をいつも懐かしく思い、言葉と音楽で平和を表現しました。1946年にパウ・カザルスは、「フランコ将軍と関係あった国で決して演奏しないでしょう」と発表しました。

スペイン内戦から逃れたスペイン人を受け入れたメキシコ人に感謝の意をあらわすために、1960年にメキシコのアカプルコでアル・パセブラ(El Pessebre)を最初から最後まで心をこめて演奏しました。

1971年10月24日に国連で平和の話をしてから、鳥の歌(Cant dels ocells)を演奏しました。


  多分、私はカタルーニャに決して戻りません。以前は私が死ぬ前に私の生まれた国に自由が戻ってくると思っていました。今は疑います  パウ・カザルス


プエルトリコで96歳で永眠しました。

残念ながら、1973年にパウ・カザルスは、亡くなった為に、その2年後にフランコ将軍が亡くなった事を知ることが出来ませんでした。彼の奥さんは、カタルーニャに遺体を移動することを断りました。しかし、1979年にパウは、やっと愛していた故郷に帰りました。現在、パウ・カザルスの遺体は、カタルーニャのアル・バンドレイユ市の墓地にあります。

サン・サルバドール・ビーチ(アル・バンドレイユ市)にあるパウ・カザルスの家は、地中海に面しています。1909年に建てられて、彼は全世界で開催されたコンサートからカタルーニャに戻ってきた時に、この家で家族と友達と夏を過ごしていました。現在、パウ・カザルス記念館に改装されました。ビガタ・サロン(Sala del Vigata)部屋と庭が必見です。いたるところで、家族的な雰囲気を大切にしています。


 アクセス: バルセロナから、南に行く電車に乗ります。
Sant Vicenc de Calders 駅で降ります。
パウ・カザルスの家まで、歩いて30分ぐらいです。
定休日:月曜日。昼寝時間に閉まっています。

http://www.paucasals.org/




ジョアン・ミロ


ミロ( Joan Miro )は、20世紀を代表するカタルーニャ出身の最も偉大な芸術家です。
全部で2000枚以上の油絵、5000枚以上のデッサンとコラージュ、500の彫刻と400のセラミックを制作しました。

さて、1893年4月20日にバルセロナ旧市街で時計職人のお父さんと装飾家具師の娘のお母さんの間にジョアン・ミロ・フェラ(Joan Miro Ferra)が生まれました。ミロは、カタラン語の発音「ジョアン」の方がスペイン語の発音「ホアン」より好きでした。1897年に妹のドロレスが生まれ、 1900年にミロは小学校に入り、1907年にお父さんの希望でバルセロナの商業学校に入りました。

1911年にミロの家族はタラゴナの近くのモンロッチで農家を購入し、同じ年に若いミロはアルバイトを始めました。しかし、ミロは病気になり、神経衰弱に陥り、その時、芸術に深い興味を持ち始めました。

1912〜15年まで「ガリ」という学校で芸術を勉強しました。その時、陶芸家 Josep Llorens Artigas(アルティガス)と画家Ricard(リカール)と出会いました。バルセロナで開催されていた展示会でキュービスムを発見し、友達になったリカールと二人でアトリエを借りました。1918年に「ダルマウ」というギャラリーで最初の個展を開き、64枚の絵画とデッサンを展示しました。

ミロは1920年にパリに初めて行き、パリとカタルーニャを往復する生活を始め、ピカソと出会いました。バルセロナのフランスエキスポで3枚の絵画を展示し、パリのカタラン展示会で2枚の絵画を展示されましたが、ミロはとても貧乏な生活を送っていました。

パリのモンパルナス地区にいる芸術家たちに引き付けられ、アンドレ・マソンやミシェール・レイリス等と出会いました。数年後に、シュールレアリスムの詩人と作家の影響を受けて、自分らしいスタイルを確立しました。

シュールレアリストのグールプと親交を結び、シュールレアリスムの創設者アンドレ・ブロトンは「我々の中でミロは一番シュールレアリストな人だ」と言いました。ミロはパリで開いた展示会でやっと成功しました。

1926年にミロのお父さんはモンロッチの農家で亡くなりました。
ニューヨークのブルックリンの国際モダーン・アート・エキジビションでミロの絵画2枚が展示されました。1927年にミロはパリのモンマルトルの丘にあるアトリエに引っ越しました。

1929年10月12日にバレアレス諸島のパルマ・デ・マヨルカで Pilar Juncosa(ピラージュンコサ)と結婚し、11月に若夫婦はパリに向かいました。そこでロシア人の画家 Wassily Kandisky(カンディンスキー)と友人になりました。一年後に、バルセロナでミロのひとり娘 Maria Dolores(マリア・ドロレル)が生まれました。

1930年代にミロは色んな雑誌を通じて、「鑑賞的な絵画芸術を殺したい」と述べ、鑑賞的な絵画芸術を軽視していました。パリでいくつかの展示会が開催され、ニューヨークでもミロの最初の展示会が開催されました。1932年にミロはバルセロナに戻り、子供時代の家に再び住んで、パリの滞在は少なくなりました。

モナコのロシア・バレエのために、舞台装置、背景、服装と幕を手掛けました。
1936年に始まったスペイン内戦のため、ミロはスペインを出て、パリとロンドンに逃げました。12月に家族を呼んで、皆はパリに住んでいました。銅と繊維セメントに描き始めました。パリで開催される国際エキスポのスペイン・パビリョンのために「Le faucheur」(カタルーニャの農民)を描きました。
1938年に建築家ポール・ネルソンの客間に「イルカの誕生」というフレスコ画を描きました。

1939年にドイツ軍隊はパリを占領したため、ミロはパリを離れて、ノルマンディ地方に逃げました。ノルマンディの夜空を見て、「星座」のシリーズを描きました。

1940年に滝口修造さんは最初のミロの専攻論文を出版しました。同じ年にミロはスペインの地中海のマヨルカ島に引っ越しました。1941年にニューヨーク近代美術館でミロの大きな個展が開催されました。1944年にミロのお母さんは亡くなり、バルセロナに戻ったミロは陶芸家アルティガスと最初のセラミックと青銅の彫刻を作りました。

1946年にボストンの現代芸術美術館で4人のスペイン人(ダリ、グリス、ピカソ、ミロ)の展示会が開催され、その翌年にミロは初めてアメリカに行きました。シンシナティ・テラス・プラザホテルの壁画(3m x10m)を制作しました。

1948年にまたパリに戻り、1950年にハーバード大学で壁画を作り、初めてツゲの木版画を作りました。
1953年:陶芸家アルティガスと共同制作で386のセラミックを作りあげました。
1956年:建築家 Sert(セルト)はミロのために、バレアレス諸島に家を建てました。ミロはパリにあるユネスコのために壁画を作り始め、この仕事によって、グッゲンハイム財団の賞を貰いました。

1960年に陶芸家アルティガスと共同制作して、ハーバード大学の壁をセラミックで創りなおしました。2年後に、パリの近代美術館でミロの個展が開催されました。バルセロナでミロを湛えて、デッサン部門でジョアン・ミロ賞が作られました。

1964年:ロンドンのテート・ギャラリーとチューリッヒの Kunsthaus でミロの個展が開催されました。世界でミロの個展が一番有名な美術館で頻繁に開催され、ミロの評判は世界に広がりました。

ミロは20世紀の優れた芸術家になりました!

フランスの南部 Saint Paul de Vence(サンポールドバンス)にある Maeght ファンデーションがオープンし、そこにある迷路はミロの彫刻とセラミックで飾られました。1966年に陶芸家アルティガスと共同制作してフランス南部のJuan-les-Pins(ジュアンレパン)で海面下の洞窟に「海のウェヌス」のセラミックを彫刻しました。同じ年に東京と京都でミロの個展が開催されました。
1968年にハーバード大学の名誉博士になり、1970年に陶芸家アルティガスと共同制作して、バルセロナ国際空港の壁のセラミックを作りました。同じ年に開催された大阪万国博にはガラスのパビリョンのため、巨大な壁のセラミックと庭を作りました。

1973年にフランス南部のサンポールドバンスで、セラミックと彫刻の個展が開催されましたし、バルセロナの IBM 支店でセラミックの壁も作りました。1979年にバルセロナの名誉博士になりました。

1981〜82年にパリのデファンス広場、シカゴ、パルマ・デ・マヨルカ、ヒューストン、そして、バルセロナで、巨大な彫刻を作りました。

バルセロナの Escorxador 公園にある「Dona i Ocell」(女性と鳥)は高さ22m.です!年をとったミロは何百枚のセラミックを作り、パリのユネスコに「太陽と月」のセラミックの壁も作りました。

1983年12月25日にパルマ・デ・マヨルカでミロは90歳で永眠し、バルセロナのモンジュイック墓地で埋められました。


http://www.fmirobcn.org/






リュイス・ドメネク・イ・ムンタネー


ガウディよりは日本では有名ではないかもしれませんが、カタラン人のリュイス・ドメネク・イ・ムンタネー建築家( Lluis Domenech i Montaner )は、モデルニスモの偉大な建築家として名声を博しています。

ドメネク・イ・ムンタネールは1850年12月にバルセロナに生まれています。若い時から建築に興味を持ち、1873年に国家試験に合格し建築家になります。一年後、建築家ビラセカと連携協力して、詩人クラベ( Josep Anselm Clave )の墓をデザインし受賞。1877年に博物館と学校のためのコンクールでは一位を受賞。

同じ年に「 Iluminacion solar de los edificios 」(建物の自然光の照明)という本を出版。バルセロナの文芸と芸術の図書館を創立。

1879年に Montaner i Simon 出版社(現在タピアス美術館)を建設。
1897〜1912年、レウス市の精神病院として使われている Institut Pere Mata を建設。

1888年に開催されたバルセロナ最初の万国博のために、シウタデラ公園ではレンガとセラミックを使用。

ホテル・インターナショナルと El Castell dels Tres Dragons を建設。
そこで初めて彼の彼らしいスタイルを強烈に表現。

1900年から、彼はカタルーニャ地方のモデルニスモ建築の代表的人物になっていきます。 ヒスパノーアラブ建築の影響を受けた装飾と曲線をよく使い(当時珍しかった錬鉄(軟鉄)を利用して ) 軽ろやかに見える建物を建設しています。


La Renaixenca という雑誌のために、"En busca d'una arquitectura nacional"(国の建築を求めて)の記事を書き、カタルーニャ国家のアイデンティティの道程を語っています。

その後、1901年にバルセロナ建築学校の校長になります。
1905年にグラシア通りにある Casa Lleo i Morera を建設。


1905年からは、ドメネク・イ・ムンタネールの一番有名な建物(1997年に世界遺産になったカタルーニャ音楽堂とサン・パウ病院)を建てていきます。

錬鉄、モザイク、セラミック、カラフルなステンドガラスをおびただしく使い、豪華なものを生み出していきました。ドメネク・イ・ムンタネールは腕の良い職人達(彫刻家、鍛冶屋、ガラス屋、大工さん、装飾家、セラミストなど)の力を得て一緒に造っていきました。特にカタラン人の Eusebi Arnau と Pau Gargallo (二人とも彫刻家)とは誠実に付き合っていました。


ドメネク・イ・ムンタネールはまた政治家であり考古学者でもあります。
カタルーニャ北部の地中海岸のアンプリアス遺跡、バルセロナ旧市街にあるアウグステュスの寺院の遺跡を研究しています。

バルセロナ市の「一番よい建物賞」を3回(1903、1905、1912年)受賞。その上、カタルーニャ地方の愛国主義、民族主義運動、カタラン語の詩協会に積極的に参加し、サークルなどの委員長になったりしています。彼はこのようにさまざまな分野で活躍した建築家でした。

他の建築家と比較して、ドメネク・イ・ムンタネールは年を重ねれば重ねるほど、より軽ろやかに華やかな建物を建設し、装飾がとても大きな役割を果たしています。

1923年、バルセロナでドメネク・イ・ムンタネールは73歳で、この世を去っています。




サルバドール・ダリ


サルバドール・ダリ( Salvador Dali i Domenech )はいつも挑発的行動をする人でした。

絵画だけではなく、劇場の舞台装置やコスチュームデザイン、宝石のデザイン、彫刻、映画監督、コマーシャル、ファッション、立体絵(3D絵)、詩や小説も書く天才でした。


1901年にサルバドール・ダリという名前の子供がカタルーニャ地方の北部にあるフィゲラスという町で生まれましたが、21ヶ月後に亡くなりました。公証人の仕事をしていたその子の父親が権威主義的性格で、幼い息子を虐待したからだと言われています。

1904年5月11日に同じフィゲラスで、サルバドール・ダリが(再び)生まれました。その子は少し前に亡くなった兄と同じ名前が付けられ、その後世界的に有名な画家になります。

同じ名前、同じ服、同じおもちゃ、ダリの両親は亡くなった長男の生まれ変わりと彼をみなしました。このことは画家のサルバドール・ダリの頭にずっとあり、彼の人生、性格、作品などに大きな影響を与えています。

1908年に妹アナ・マリアが生まれました。


いたずらっ子の若いダリは屋上の洗濯場に閉じこもって、何時間もかけて絵を描きました。とても上手でした。
14歳のダリの画いた絵がフィゲラスの劇場に出品され、よい評価を受けました。

1921年に母が亡くなり、同じ年の10月にダリはマドリッドの美術学校に入学し、学校の寮で映画人ルイス・ブニュエルと詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカと出会います。
2年後、ダリはデッサンの先生を激しく批判し、そのため学校から退学処分にされてしまいました!

その後夏休みを、ダリはブニュエルとガルシア・ロルカと一緒にフィゲラスの近くにあるカダケスという漁村でよく過ごしました。

また、1925年バルセロナのダルマウ・ギャラリーで最初の個展を開き、ダリの絵を見たパブロ・ピカソやジョアン・ミロが興味を持ってくれました。1926年に初めてフランスに行き、パリでパブロ・ピカソに出会います。


スペインの兵役を務めた後、パリに戻り、ジョアン・ミロの紹介でシュールレアリスムのグループを創立したアンドレ・ブロトンやポール・エリュアールに出会います。

1929年にカダケスにエリュアールと彼の奥さん「ガラ」を招待し、もてなしました。この時ダリはガラ(ダリの10歳上)と運命的な出会いをして恋に陥ってしまいます。それ以後ガラが亡くなるまで、二人は離れることはありませんでした。ガラはダリのミューズでした。

ダリの父は息子が結婚している女性と付き合っていることを怒ってダリと決別し、1948年まで二人は一度も会うことはありませんでした。

1929年ダリはルイス・ブニュエルと一緒に「アンダルシアの犬」と「黄金時代」という映画を製作し、ダリはシュールレアリスムのグループのメンバーになります。

1930年:偏執狂的批判的方法の始まりです:「腐ったロバの死体」や「見える女性」(ガラを敬意を払うため)の著書を出版しました。

同じ年、カダケスの近くポール・リガットに小さな家を購入し、その家をその後だんだん大きくしていきます。そして毎年この「卵の家」でガラと一緒に長く滞在するようになります。

1932年:ダリはアメリカで開かれたシュールレアリスム展に参加しました。「ゾディアク」というグループが創立されて、定期的にそのグループのメンバー達はダリの絵画を購入しました。

パリでダリとガラは民法上の結婚をおこないました。

1934年:パリ、ロンドン、ニューヨークとバルセロナでダリの個展が開催され、ニューヨークの個展は特に熱狂的な成功をおさめました。
秋のサロンで、「ウィルヘルム・テルの謎」を紹介し、その時からアンドレ・ブルトンとの見解の相違が始まりました。

1936年:スペイン内戦。ロンドンで開催されたシュールレアリスムのエキスポでインタビューのため、ダリは潜水服を着て登場し人々を驚かせました。しかし潜水服の中の空気がだんだん薄くなってしまい、ダリは息が詰まるところでした!

12月にダリの写真がタイムズ日刊紙のカバーに掲載されました。

1937年にハリウッドでマルクス兄弟に会います。この年「ナルシスの変貌」を描きました。またイタリア人のファッション・デザイナー、スキアパレリと連携協力して、オマールのドレスなどをデザインしました。

次の年にシュールレアリスムの国際エキスポに参加し、前から精神分析学の影響を強く受けていたダリは7月にフロイトに会い、フロイトの画像を何枚か描きました。


1939年にダリはヒトラーやフランコ独裁者に賛意を表したため、シュールレアリスムの創立者アンドレ・ブロトンはダリとの関係を解消します。前者はSALVADOR DALI の名前の文字ゲームで AVIDA DOLLARS(スペイン語:ドルの亡者)に変更しました。

1940年:ダリとガラはパリに短期間滞在した後、アメリカに移住します。

米国に住んでいた8年間にディズニーとヒッチコックと一緒に働き、アニメの計画や映画の舞台装置を作りました。自伝(ダリのシークレット・ライフ)も出版しました:少年時代、父との難しい関係や少年時代から自分が天才だと知っていたことなどが分かりやすく書いてあります。


1949年にダリ夫婦はヨーロッパに戻りました。ダリはポール・リガットのマドンナのシリーズを描きます。

1952年:広島の原爆の影響で、電子核の神秘神学時代と粒子の時代の始まり。

1953年:カリフラワーでいっぱいにした黄色と黒いロールスロイスでやって来て、パリのソルボンヌで偏執狂的批判的方法についての講演をして大成功しました。

1950年代:宗教的な絵が多くなります。1950年:ポール・リガットの聖母、1954年:磔刑のキリスト、1955年:最後の晩餐。

1958年に(ガラの最初の夫エリュアールが亡くなった後)ダリとガラはスペインの教会で結婚しました。
ハプニングでパリのエトワール劇場において長さ12メートルのパンを紹介しました。

1960年代:神秘主義の絵画がたくさん描かれました。

ベネチアで登場したバレーのため、ダリは舞台装置を作り、モーリス・ベジャールは振り付けをしました。

ダリは南フランスにあるペルピニャン駅が世界のおへそだと突然気がつき、人々にも知ってもらおうと、広く公言し始めます...

ミレーの「晩鐘」についての悲劇的神話が発売され、「ダリ天才日記」が出版されました。


1971年にアメリカのクリーブランド(米国オハイオ州)で、ダリ美術館がオープンしました。11年後、その美術館はセントピーターズバーグ(米国フロリダ州)に移動されて、カタルーニャの天才の一番有名な絵が展示されています。


http://thedali.org/

1974年:フィゲラスのダリ美術館もオープンしました。


http://www.salvador-dali.org/


1979年にパリのポンピデュー・センターでダリの大きな回顧展が開かれました。

1982年6月10日に88歳でガラが病気で亡くなり、悲しみのためダリは落ち込みました。ダリはガラにプレゼントしたプボル城に移り住み、その後、彼はプボル侯爵になりました。

1983年:マドリッドとバルセロナでダリの回顧展が開催されます。

1983年5月にダリは最後の絵「燕の尾」を描きました。

翌年にプボル城で、夜間ダリの部屋で火事があり、ダリはおお火傷をし、バルセロナで入院しました。

1988年:モスコーで初めてダリの個展が開れました。

1989年1月23日、天才のサルバドール・ダリはフィゲラスで永眠し、彼の希望で、彼の遺体はやって来た人達が彼のお墓の上を踏むようにダリ美術館の地下室に埋葬されました。お金が大好きだったダリは彼の財産をスペイン政府に全部寄付しました。


☆ ダリの絵によく描かれているモノは:パン、卵、蟻、バッタ、足が細長い象、ガラ、腐ったモノ、エロチシズム、海栗(うに)、ピアノ、ハエ、ダマシエ、鍵など。


☆ ダリの言葉:

狂人と僕の違いは、僕は気違いではないということだ。

私は6歳の時に料理のシェフになりたかった。7歳の時にはナポレオンになりたかった。その頃から、私の望は私の誇大妄想のように常に大きくなっていった。

ダリがいる所には、決して私は退屈しません!


☆ ホテル・デュランのオーナーが語った話:

ある日はダリはフィゲラスのデュランホテルで夕食をとる予定でした。でも、その日はガラがいなかったので一人でした。午後、ダリは町を歩いていて、よく行ったことのある洋服店の前を通り過ぎようとした時、その店の店長がウィンドーの洋服を変えているところでした。ダリはその店に入り、「女性のマネキン人形4体をデュラン・ホテルに持ってきてくれませんか?」と頼みました。
デュランさんはダリの依頼でレストランのテーブルの周りにマネキン人形を座らせて、きれいなドレスを着せました。
その夜、ダリは4人の”女性”と夕食を楽しく過ごしたということです!

☆ 35年ぐらい前にダリはフランスのテレビでチョコレートのCMをしました。自分の口ひげを触りながら、je suis fou...(I am crazy)と言って、しばらく間をおき  du chocolat Lanvin !(about Lanvin's chocolate !)。


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http://www.salvador-dali.org/

ダリ美術館を見学する際、隣の宝石博物館に行くのをお忘れなく!
同じチケットで入れます。ダリ美術館本館を出て右に曲がると、角に鉄の門と回転ドアがありますが、そこです!

1940年代、1950年代にダリが宝石をデザインし、ニューヨークの有名な宝石屋がそれを作りました。大きな存在しない石以外は、全て本物の金、銀、ダイヤモンド、ルビーなどです。






有名なカタルーニャ人(その他)


モンセラート・カバリェ 1933年 −  ソプラノ歌手
ホセ・カレーラス 1946年 −  テノール歌手
ジョゼップ・マリア・ジュジョール 1879年 − 1949年 建築家、ガウディの弟子
ジョゼップ・プッチ・イ・カダファック 1867年 − 1956年 モデルニスモ建築の建築家
ジャシント・バルダゲー 1845年 − 1902年 詩人、神父さん
ジョゼップ・リィモナ 1864年 − 1934年 彫刻家
ラモン・カザス 1866年 − 1932年 画家
アントニー・タピアス 1923年 − 2012年 画家、彫刻家
ジョアン・アントニー・サマランチ 1920年 − 2010年 オリンピック委員会の会長
フェラン・アドリア 1962年 −  料理人
パウ・ガソル 1980年 −  バスケットボール選手
マルク・マルケス 1993年 −  モーターサイクル・ライダー
ダニ・ペドロサ 1985年 −  モーターサイクル・ライダー
カルレス・プチデモン 1962年 −  カタルーニャ州首相





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